兵籍簿の請求2

こんにちは、八咫烏です。

 

 

2か月前の8月に、第2次大戦で戦死した親戚の兵籍簿を請求していました。

死亡時の本籍が宮城県だったので宮城県の保健福祉部社会福祉課へ請求したのですが資料の保管庫が1951年の二日町大火で火災にあい、ほとんどの兵籍簿が焼失してしまったとの事でした。残っている記録は519名分しか無いみたいだったので見つかる可能性はかなり低かったのですが、ダメもとで請求しました。

 

先日、その返信が届き、「兵籍簿、有ってくれ~」と祈るような気持ちで開封しました。

 

中には、社会福祉課からの「さきに御依頼のありましたこのことについて、本県保管資料を調査した結果は下記のとおりです。」と言う回答文が有りました。

 

そして、ページをめくると

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有りました!。感激です!。

 

履歴を見ると、配属された部隊が第68旅団であることが分かりました。

昭和19年10月30日、第68旅団砲兵隊に編入

    11月27日、比島上陸

フィリピンには上陸できたようです。

と言うのも、第68旅団を調べてみたら、色々悲惨な目に会った部隊だったことが分かりフィリピン上陸前に亡くなった方もいたことが分かったからです。

        

昭和19年の戦争末期、第68旅団はフィリピンへの派遣が命ぜられます。しかし戦局は既に日本にとって、かなり劣勢になっている時でした。制空権が無い海域を味方の援護なしで台湾からフィリピンまで輸送船で移動せよと言うのです。このフィリピンへの移動中にフィリピンへの上陸を果たせず、約1000名の方が亡くなっています。

レイテ島への上陸後の部隊の記録はあまり残されていないみたいです。第68旅団は兵員数6392名でしたが、この6392名の兵士達のうち、フィリピンから生還できた兵士は、10名に満たなかったそうです。ほとんど全滅です。

生還者が極端に少ないため、記録が残されていないのだそうです。

 

今回、軍歴証明書を手にする事が出来て一区切り付きましたが、第68旅団の事や第二次大戦の事を調べているうちに、ここでは書けない様な凄惨な事が有ったのを知り、戦争の悲惨さ非情さを強く感じました。

いろんな感情が入り混じってしまって、うまく言葉に出来ませんが、犠牲になられた各国の軍民全ての方々の御冥福をお祈りしたいと思います。